今日の本題は、ずーっと下の後半からです。まずは雑談から。
最初はデスクトップPCで、次はノートPCでしたが3回壊れて、今はまたデスクトップPC。
そうするとデータ移行の度に重複したり、MD時代の取り込んだデータ、楽譜のデータ、写真、色々と整理する時間がなくて大変なことになっています。
それで、少し整理しようと、たまたま見つけた10年前の音源。えー私って、昔のほうが上手いかも。スピード感やキレがあって、聞いていると自信を失いそうになりました。つまり、年とともに衰えてるのかも。でも!スウェーデンの伝統音楽奏者に目をやれば、確かに皆若い頃のほうが早弾きしてて、年齢とともに落ち着いた演奏になっています。数年前に亡くなった大御所のBjörn Ståbiも若い頃の演奏は、聞いていてフレッシュでキレもあって。でも、晩年は美しくて物事の本質がダイヤのようにキラっと輝く、そんな演奏でした。そうだ、それを心の支えに頑張ろう!と思い直す今日この頃です。
さて、そろそろ本題。
認める伝統、認めない伝統。
どういうことかと言うと、随分前になりますが共演者と雑談の中で「スウェーデンの伝統音楽奏者Aさんが弾くと、何を弾いてもAさん流になる。原曲のテイストはいずこへ?」という話が出ました。原曲を聞くと、全然、雰囲気が違ったんだそうです。私は「Aさんならいい。ファンだから全然いい!」と言ったのですが、後からずっとそのことについて考えていました。
伝統音楽として、どうあるべきなのか。
伝承音楽の世界では、独自の解釈で演奏すれば「オリジナル・アレンジ」とみなされることが。誰のどういった時に「その人の解釈や表現」と言われ、どういう時に「伝承音楽として受け入れられる」のか。時間をかけて考えると見えてくるものがありました。
その地域、その時代を代表する伝統音楽奏者かどうか
結局、これにつきるのではないでしょうか。
故Viksta-Lasse(ヴィクスタ・ラッセ)は言わずもがな、ウップランドを代表する伝統音楽奏者です。Viksta-Lasseは、演奏ツアーが多かったからか、知り合い(August Bohlin)の影響や、ダーラナ地方(ビングシュー)やノルウェーの曲がレパートリーにあります。
そして、その地域の本家とは少し違うんですよね。Viksta-Lasse風というか。例えば、Frisells polskaはダーラナ地方の曲ですが、「Viksta-LasseのFrisells polska」というバージョン違いがあります。バージョン違いと言っていますが、つまりViksta-Lasseが自分流に弾いたということです。当時は70-80年代。「録音や生で本家バージョンを聞く機会がない訳でもない。でも、デジタル文化の今ほど簡単には聞けない。」そういう時代的な違いはあるものの、Viksta-Lasseが伝統音楽奏者として認められた存在だったからこそ、「彼のバージョンとしての枝分かれ」が定着したのだと思います。ウップランド地方の曲に、「efter Viksta-Lasse(ヴィクスタ・ラッセの伝承)」として、ダーラナ地方やノルウェーの曲が含まれる所以です。そうやってウップランド地方の新しい伝統が作られた、とも言えます。
逆に考えて「枝分かれ、バージョン違いが受け入れられないケース」を考えると、その時代、その地域を代表する奏者とするにはあと一歩、という場合。
それでいうと、冒頭のAさんは「その時代、その地域を代表する奏者」で、反対する人は少数派だと思います。貢献度、知名度、何をとっても大御所でファンも多い。ただ、確かに、Aさんを通すと大体「Aさん流」になります。スタイルが出来上がっているんですね。ですが、デジタル時代になり(用意に比較できるので)批判する人も増えるだろうとは思います。ただ、「変化してほしくない伝統」も分かるものの、「変化を経てつくられてきた伝統」もあります。
そこで一番大事なのは、「伝統への敬意があるかないか。それが感じられるか。」なのかなと思います。
最近聞いたバイオリニスト百音さんのインタビューがとても面白かったのですが、作曲家の三枝さんのコメントもあるのですが「芸術家は壊す人。言われたことをする人じゃない」。
いつの時代も、「名を残す人は型やぶりなのだ」と思えば、この伝統音楽に出てくるバージョン違いの話題も、違う印象があります。人が作って伝えてきた伝統音楽。やっぱり、おもしろいです!



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